cafe 奥原商店 休みの日にぜいたくな午前中を過ごす空間
休みなのに、というか、休日だからこそ早起きをして、布団を干し、部屋を片付け、洗濯を干したら、美味しいコーヒーが呑みたくなる瞬間がある。いままで、本八幡あたりで美味しいコーヒーを呑みたくなると麻生コーヒーへ行っていた。自転車でもちょっと距離があるんだけど、このへんで美味しいコーヒーはあと無い、と諦めていた矢先に奥原商店を見つけてしまった。
正しくは見つけたと言うより、あっ、こんなところにカフェができたんだ!と知り、しばらく経ってから入ってみました。なにしろ自分は人見知りで口下手で対人恐怖症なので、知らないところへ入るのが苦手。
で、まずはご覧くださいこのお手洗い。
本八幡あたりで外でお手洗いというと、改装されたシャポーのお手洗いへ行く女性が多いと思うんですが、この広さ、清潔さ、そして楽しさ。(お手洗いの楽しさってなんだよ)
カフェの紹介でいきなりお手洗いというのもなんですが、自分が驚いたのがまずこれでした。
扉を開けて左側に人が二人いる、ご夫婦だそうです。カウンターのメニューをちらっと見てコーヒーをお願いします。お会計はその時に一緒にね。好きな席に陣取り、あとは漂う時間と空間の中で時を過ごすのもよし。
あるいは仕事が立て込んでいるんだけど、集中してなにかを考えたい時、携帯電話は持っていかず、パソコンと財布だけ持って行くときもある。テーブルだけでなくカウンターにもコンセントがあり、もちろん一言断ってから借りるんだけど、Wi-Fiもあるので落ち着いて作業に集中できます。
コーヒーをお願いすると「あっさりとしっかりどちらにしますか?」と尋ねられる。自分はいつもしっかり。ガラスのマグカップでサーブしてくれる。
カフェなんだけどご飯も美味しい。自分がよく食べるのはスモークされた鯖のサンドイッチ。自家製で燻製にした鯖だそうです。ちなみに鯖のパスタも美味しい。回転寿司に行っても食べるのはエンガワと〆鯖ばかり。自分は鯖が好きなので嬉しいメニューです。
カフェなので飲み物は当然の助動詞の如く豊富。レギュラーメニューと折々の季節に触れた風物詩的な飲み物もあるんだけど、これがいつまでもない。失う可能性がモノゴトを貴重にさせるのだ。だから奥原商店のインスタやTwitterは欠かさず見てます。でないと、行こうと思ったときにはなかったりするからさ。
踏み込んだことなんですが、ご主人は北関東のあたりのご出身、マダムはここ本八幡が地元だと伺いました。ちなみに二人の出会いは以前のお勤め先がご一緒だったらしい。なかなかやるじゃねーか。お休みの日は終日寝て過ごす、ということもなく、気になったところへ食事に行かれたり、と、勉強に余念がない感じ、熱心なんですね。
店の中はカウンターの他にテーブルがいくつかあるんだけど、椅子というかソファーの座り心地がいい。特に一番奥の緑色のソファーの座り心地は秀でています。カップルシート?的なところもあり、この席は壁に向かって二人がけのソファー、まだ、座ったことがない。ただ、なんとなく。一人で座るのもなんだし、かみさんと一緒に行ってここに座るのもアレだし、だからといって女の子を誘って自宅と目と鼻の距離にあるカフェでこんな席に座っていたら、光より早い女同士のコミュニケーションであっという間にらりるれろです。
最初に訪れたときからとても気になっているものがあって、意を決して尋ねてみたらば、コーヒー豆を漬けたお酒だと伺いました。気にはなるけど、未だ、経験無し。
奥原商店、自分は明るい時に一人で行くことが多いのですが、陽が陰ってからもその佇まいは雰囲気あります。なんとなくお店の意匠も裸電球と光みたいな感じだし。
ところで、奥原商店にいて思い出した小説がある。
パリにドゥ・マゴ(Les Deux Magots)というカフェがあります。ランボーやヴェルレーヌ、時の芸術家や左翼知識人のたまり場となっていたカフェです。第二次大戦の頃にはパリの人びとが政治的な議論をし、サルトルやボーヴォワールなどの実存主義者たちはここをアジトとしていました。という歴史的な背景を持つカフェからはじまる小説があります。深夜プラスワンと言う小説です。
主人公のルイス・ケインがパリのカフェ、ドゥ・マゴで雨をしのいでいる時、戦時中のコードネームで彼宛にドゥ・マゴの公衆電話に電話が入る。電話をしてきたのは戦時中の仲間、アンリという、今ではパリで屈指の弁護士と言われている男。電話の内容は仕事の依頼で、ある男をクルマでフランスのカンペールからリヒテンシュタインという国まで無事に送り届けて欲しいというものでした。
小説の主な登場人物は、
戦時中、フランスのために戦ったレジスタンスを仲間に持つ主人公、元スパイの感傷的なイギリス人、ルイス。
世界的な企業を経営し、節税のためにリヒテンシュタインに会社を登記し、婦女暴行の嫌疑をかけられている実業家、マガンハルト。
イギリスの上流階級の婦女子を育成する学校を卒業し、マガンハルトの秘書を務め、ガンマンに恋をしてしまうイギリス人女性、ヘレン。
シークレットサービスでアメリカ合衆国大統領のボディーガードをしていたアル中でプロのガンマン、ハーヴェイ。
この四人の行動と言葉を手がかりにストーリーは流れていく。
日本語への翻訳は菊池光氏。ロバート・B・パーカー、ディック・フランシスの翻訳で名を馳せた人。乾いていて、暖かく、冷たくなくて、優しい文を書かれます。イタリアには“Traduttore, traditore.”、翻訳者は裏切り者だ、ということわざがありますが、菊池光氏の翻訳は原作を見事に裏切る素晴らしい日本語になっています。
深夜プラスワン、ストーリーにはふたつのクルマが華を添えていきます。ひとつはシトロエン、それもDS、もうひとつはロールズ・ロイス(ロールスではなく濁ります)のファントムII。ロールズの方には乗ったことがないけれどシトロエンDSには乗ったことがあります。どういうクルマかというと、とてもとても厄介なクルマです。
このDS、当時のフランスではサルーンの位置づけで、大統領シャルル・ド・ゴールの専用車でもありましたが、目的地まで時間通りに着くという局面では絶対に選びたくないクルマのひとつです。なぜかというとこのクルマには「ハイドロ・ニューマチック」というメカニズムが使われており、ブレーキ、サスペンション、ステアリングのパワーアシストのために、ボディー全体にまるで血管のようにこのシステムの動力を伝達する配管がされていて、それがまた脆い。
ハイドロ・ニューマチック自体は先進的な油圧制御なのですが、設計思想は進んでいても、部品の工作精度や組み立ての精度が今ひとつ、フェラーリでもよく言われる「設計最高、工作最低」というやつですね。そしてその油圧を生み出す油にとても酸化しやすい植物油を使っているのも厄介。
クルマとしてのDSの佇まいは、それこそフランス文学的抽象でなんともデカダンでいいんですが。
このストーリーの中でクルマは事故に遇い、それが原因でDSのというかハイドロが壊れ行く様を作者はリアルに描写しています。この人はきっとDSに乗ったことがあるんだ、そしてハイドロが壊れちゃったことがあるんだ。だんだんとサスペンションが効かなくなり、ブレーキもままならず、ステアリングも重くなってくる、でも、たとえそうなっても最後までクルマを御していくドライバーのケインに感情移入していきます。
タイトルの深夜プラス1、ちょっと不思議なタイトルですが、原題である“Midnight Plus One”と書くとわかりやすいと思います。深夜12時1分がルイスの請け負った仕事のタイムリミットなんですが、その結末をお愉しみに。