すみれのボタン展で本八幡botをInsightする。
すみれのボタン展を開催中のミントブルーへお邪魔してきました。
ずっと不思議に思っていました。なぜ、本八幡botがここまですみれのボタンに入れ込むのか。だから尋ねてみました。そしたら。
以前、すみれのボタンとして実店舗を構えていたときから、このボタンに強い求心力を持たれていたようです。そして、時は流れ、紆余曲折あり、すみれのボタン閉店のときに併せて本八幡botがボタンをすべて買い取ったそうです。
そのボタンは自宅に大切に保管されていて、とはいえ、持っていても、、、、ということもあり、販売へと踏み切るわけです。ネットショップを開設し、ニューポーロイチなどのイベント出展。はたまた、ミントプルーの協力を得ての展示販売。
でもね、ネットでいくら探しても「そもそもなぜはじめたのか?」ということを見つけられませんでした。だから、すみれのボタン販売までの経緯は今日はじめて知ったわけです。
今の時代のマーケティングと言う観点から見ると、(意図的にかも知れませんが)セオリーから外れているのかなって思っていたわけです。今の時代のマーケティングは概ね次のステップで構成していきます。
・ストーリー なぜそれを始めようと思ったのか、人に語れるストーリーづくり
・コンテンツ すみれのボタン
・モデル コンテンツがあれば売上が立ち、その最大化を図るためのモデルが形成される
・エビデンス 最適化されたモデルが繰り返され実績が積み上がりエビデンスが生まれ、人は期待をする
・スパイラル コンテンツ、モデル、エビデンスの回転が上昇スパイラルを生み始める
・ブランド スパイラルの行き着く先がブランド、つまり信頼感です
・アトモスフィア 存在感です。マーケティングのゴールですが、時代とともに消費指向は変化します
この一番始めにあるべき人に語れるようなストーリーがなければ、その旅立ちはそもそも失敗する可能性を多くはらんでいます。また、企業を大きくして売り抜け、金を儲けたいということはストーリーにはならないし、誰も共感しない、そもそも金儲けというのは人間にとって些細なことです。
従来日本で行われてきたマーケティングはコトラーが一般的ですが、あれは戦後の米国復興のために編み出されたアプローチです。つまり大量生産、大量消費を支えるための方法論とも言えます。だから、昭和までの日本だったら通じました。モーレツからビューティフルへ、24時間戦えますか、という時代でしたから。
しかしながら平成へ入ってからの不況、災害、教育改革で生活者の意識は大きく変わりました。平成生まれ平成育ちは、デフレで生まれ、社会不安(バブル崩壊、リーマンショック、地下鉄サリン事件、アメリカ同時多発テロ、東日本震災)の中で教育を受け、競争から協調という教育の中で育ってきました。この生活者の消費志向の変化に従来のマーケティングメソッドではついていけなくなったんです。
そこに付け加えるとコミュニケーションというのはもはや情報の伝達ではないんです。「こうかもっ?」とやったとこを「そうかもっ!」と瞬間的に伝わることがコミュニケーションです。インスタグラムなどのヴィジュアル一発の脊椎反射系が受けるのはそこだと感じています。考えなくていんです。感性一発勝負。
以前、すみれのボタンに関与されている“ハトリはボタンに埋もれる”という方と少しやり取りをした際にも僭越ながら申し上げたのですが、生活者の多くは商品やサービスを買うのでなくアイデアとライフスタイルを買うんです。
そしてコカ・コーラ、ナイキ、アップルがやっていることは商品の訴求ではなく、ライフスタイの提案です。
これは情緒的な要素で製品を買うことなどまずありえないビジネスの世界には切り込めませんが、コンシューマーには有効な手立てです。
すみれのボタン、本八幡botの試みがうまくいくようにと思っています。好きだから買い取った、その心意気は始まりのストーリーとしては十分な共感ポイントになり得ると思っています。
人は自分と関係性が深い(と思っている)ところからモノを買うんです。
ちなみに“本八幡bot”と“ハトリはボタンに埋もれる”との関係性についてはスモーキーな回答しか得ることができませんでした。
また、いま、実店舗というものが見直されつつあるように感じています。コンビニで現金で買った時のあのお釣りの手渡しは残された最後のヒューマンタッチなんだと思います。ホームページはお店、SNSはチラシというのが今どきの主流かもしれませんが(特にホームページ屋さんはそういうでしょう、ご商売ですから)、顔が見える相手とのやり取りは、そこは最後は人間だもの、暖かく柔らかい交流があったほうが双方とも安心できるんでしょう。